こにたん、組織開発の日々

2022年4月より組織開発を生業に。始める前から天職の確信

居場所

 

きのう仲間との振り返りで気づかされた。

いまはなぜ昔ほど、「居場所探しに一生懸命になっていないのか」。

 

社会人になってから自分の居場所がないような、根無し草で漂っている感じがしていた。

それは自分が愛した商売を続けられなくなり、過去現在とつながる人脈が社内に残らな

かったことが影響しているのかもしれない。そしていろんな部署を転々としたので、

昔から知っている仲間がいなくなったからかもしれない。

 

当時と今が違うのは、過去の自分を知っていなくても、現在から未来を共につくる想いが

あれば良いと考えているからだ。

想いをともにする「共感」を抱ければ、そこが居場所なのではないだろうか。

 

そんな居場所は会社だけではなく、プライベートにもある。

自分が居場所探しに一生懸命になっていないのは、自分の心の内を分かち合える人たちが

公私にできたからだ。分かち合えることで共感が育まれる。そして未来へ向けて一歩、

前へ足を出すことができる。

 

ぼくにとって大切なのは、勇気を贈りあえる共感だ。

直面している困難や、未来への想い、それについて相手を理解しようと近づくことで共感

が生まれる。共感を生むには自分から相手へ近づくことから始まる。そして互いの間に

勇気が生まれるのだ。

 

そんな思いを感じさせてくれる人たちに出会えたことが、とても幸せ。

そんな居場所を大切に丁寧に、過ごしていきたい。

 

 

立ち止まることば

 

仲間に教えてもらった言葉「リマインド」。

彼女にとっては「ぼちぼち」。自分が不安に駆り立てられたり、のみこまれそうになった

ときに、自分にかけてあげる言葉、それがリマインドだそうだ。

 

時にわけもなく不安になったり、自分ができないと落ち込んだり、

そんな感情に飲み込まれそうになったら、自分にかけてあげる言葉、ぼちぼち。

それでいいんだよって、自分が立ち止まれて息をするスペースをくれる言葉なんだな。

 

僕の場合は、肩が上がって身体が緊張して前のめりになっている姿勢があるそうだ。

そんな時は、息を吸えるスペースが少なくなっている。

もうちょっと肩の力を抜いて、のびのびとした自分の力を発揮したいものだ。

 

感情は出し入れ可能な「道具」だとアドラー心理学の目的論ではいう。

自分の目的のために、感情は使えるものだと。

ぼくは、失敗するかもしれない未来を迎えるのが嫌で、その未来に行きたくなくて、

不安や劣等感の感情をつくり前へ進まないようにしているのかもしれない。

だとすれば、いたずらに先の未来を考えず、目の前この瞬間にできることだけに集中

しよう、その範囲でやれることをやるだけだ。

 

「今だけ乗り切ろう」

そう自分に対してリマインドの言葉をかけて、深呼吸をしよう。

 

未来づくり

 

仲間と未来をつくるには「ことば」がいる。

ことばを用いて、姿かたちの現れていない未来を、対話で現実のものにする。

だからあなたと語りたい。

 

ことばの先に、お互いが観えている世界の重なりが大きいほど、

未来を創る推進力が大きい。私たちの中に共感を生みだしたい。

そんなことを考えている僕に、Mr.Childrenの歌詞が刺さった。

 

「足音〜Be Strong」より一部抜粋

 

夢見てた未来はそれほど離れちゃいない

また一歩 次の一歩

足音を踏み鳴らす

 

例えば雨雲が

目の前を覆ったって

Yeah また日差しを探して歩き出そう

 

ときには灯りのない孤独な夜が来たって

Yeah この足音を聞いてる

誰かがきっといる

 

 

無尽蔵の力

 

「お前の母ちゃんでーべそっ」と、昨日は言われた感じだった。

今頃そんなことをいう子供はいないだろうが、少年時代言われると腹が立ったものだ。

大切な人を仲間を軽んじられること、そんな発言には憤りを感じた。それは今もだ。

 

大切な人を大切にしたい、

無尽蔵の力を湧かせる原動力は「人を想う力」が生み出すと思う。

 

昨日とっても嬉しかったのが、僕らの想いと活動を汲み取り、僕らを庇ってくれた社外の

仲間の存在。心が震える力をいただく、それが勇気に繋がる。

 

「でーべそっ」と言われたふうに感じたのは、ぼくらチームにやりきる器がないとの風評

を聞いたからだ。ぼくが未熟だ能力がないと言われる事は全然構わないが、もし仲間の

ことをそう言うのだったらそれはお門違いだ。彼らの現場実践の根性と愛情は本物だ。

現場現実その中から磨いている力こそ本物なんだ、見くびるでは無い。

 

「信じて関わる」それが僕ら組織開発に関わる人間のスタンスだ。

僕らを揶揄する人がいたとしても、そういう人に対しても同じだ、信じて関わる。

それが人から正のエネルギーを引き出す王道だから。

 

今朝は2つの素敵な言葉に改めて出会う。
「一切の迷いは、自分自身をことさら可愛がることから生じる」

「善いことを思い、善いことを実行する」。

 

無尽蔵の力を、自分からも人からも引き出すには、「人を想う力」だ。

 

ゆっくりと自分なりに

 

成人発達理論を仲間と学んでいる。学びから自分が感じたことを記す。

 

「能力を開発するには、ゆっくりと自分なりに。

 謙虚に他者から学び、継続的実践から学びを統合する。そして持論を地肉化すること」

 

成長していく3つのステップがある。

①適切な認知構造の複雑化

②自分の中にある知識やスキルを整理統合し使える技になっているか

③VUCAスキル、多様な利害関係者の視点を把握し対話し意思決定の行動につなげる

ただ順番としては、現場実践の③から始め、②→①へと進んでいく。

 

「状況把握能力」を伸ばすことが大切となる。

われわれ個人と組織を取り巻く広い文脈をとらえること。その状況の中で、

自分が向き合っている課題や問題とともに生きることから、この能力が磨かれる。

まさに生きている現実現場に、学びが転がっているのだ。

 

学びは他者から与えられるものではなく、自分の置かれた文脈から得られる。

対人支援者としては、クライアントが切実に感じる領域で、相手が意味があると思える

学びを提供することが肝要だ。そしてお腹いっぱいに理論を渡すことではなく、相手が

すぐ使えるスキルを特定し、ひと口サイズに切って実践ができる環境をデザインする

こと、それが相手の成長を促すやり方だ。

 

「揺れ動く世界を観る力を磨く」。

視野・思考の広さと深さ、これは多様な文脈の存在を認識し、現実現場から学びとる

姿勢から磨かれる。

 

ただ焦るでない。

人の発達はゆっくりとその人なりに、その人でしか育んでいけないものだから。

 

 

まずやってみる

 

昨日は岡本太郎の展覧会へ行ってきた。

エネルギーに満ち溢れていた。

 

胸を掴まれるような放出されるエネルギー。

エネルギーをもらうのに山へ行き自然のパワーをもらうことも好きだが、人から放出

されるエネルギーに触れることも自分に喝をくれる。3時間ちかくゆっくり眺めていた。

 

岡本太郎さんの言葉もいろいろあったがその中に、

「なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ」

 

純粋無垢な少年のままに、やりたいと思うこと、自分が突き動かされるもの、

その瞬間瞬間ならではの想い、それを人生通して貫いていたのが岡本太郎なのだろう。

 

まずやってみようと思えるには、自分に通じていないと、やりたいこともわからない。

何を望み何を生み出したいのか、前へ進んで何を得たいのか。

生きることは創造していくことだと思う。外の世界と自分の内なる世界が共鳴しながら、

何を自分の身体から生み出していくのか。

 

芸術家でなくても、その人なりに生み出している。

自分なりに生み出していくことが生きていく喜びだ。

もう一つ岡本太郎の言葉

「生きる日のよろこび、悲しみ。一日一日が新しい。彩りをもって息づいている。」

 

 

 

自分という魂



月間致知 読書感想文2月号「仏道の原点因果応報の真理に学ぶ 窪田慈雲」

 

「自分と言う魂は元々どこにもなかったのだと私は得心した」にガツンとやられた。

 

窪田さんは御歳90歳、仏道に身を投じて七十余年の方。

17歳で仏門を叩き、40歳で仏道修行を終了された。そのころ勤めていた保険会社で

ロンドン駐在した際に、自分の身体はあるけど自分はいない、そんな奇妙な感覚が1週間

も続いてある日、「遥か彼方からゴミの塊のようなものが猛烈な勢いで飛んできて、

両腕、両足、胴体、頭になり、ガチッとひとつの身体が形成されました」という。

そして冒頭の言葉の「自分という魂は元々どこにもなかった」の言葉につながる。

お釈迦様が至った悟りの世界はそうした気づきの先にあるものかも知れないと。

 

また惹かれたのは「執着を外す」という言葉だ。

人の迷いの根源には、俺が俺だと我を張るところから様々な悩みが生じる。

執着を外していけば、自我から解放されると。

 

ぼくはまだ現世に迷い、俺がというちっぽけな自尊心を感じていたい心が残る。

ただ昔よりは、俺がの思いを緩められるようになってきた。

そうすると、他者と交わりながら新しいものが生まれる喜びを知ってきた。

 

ぼくの仕事は新たな関係性を生み出す仕事。自分と相手との境界線がなく、

溶けて交わり分かち合い、新たなものを創造できるのが至福と想う。

そこには執着の囚われから放たれることが必要なのだろう。

自分という枠を溶かしたときに、分かち合う悦びは生まれるのではないかな。