自分という魂
月間致知 読書感想文2月号「仏道の原点因果応報の真理に学ぶ 窪田慈雲」
「自分と言う魂は元々どこにもなかったのだと私は得心した」にガツンとやられた。
窪田さんは御歳90歳、仏道に身を投じて七十余年の方。
17歳で仏門を叩き、40歳で仏道修行を終了された。そのころ勤めていた保険会社で
ロンドン駐在した際に、自分の身体はあるけど自分はいない、そんな奇妙な感覚が1週間
も続いてある日、「遥か彼方からゴミの塊のようなものが猛烈な勢いで飛んできて、
両腕、両足、胴体、頭になり、ガチッとひとつの身体が形成されました」という。
そして冒頭の言葉の「自分という魂は元々どこにもなかった」の言葉につながる。
お釈迦様が至った悟りの世界はそうした気づきの先にあるものかも知れないと。
また惹かれたのは「執着を外す」という言葉だ。
人の迷いの根源には、俺が俺だと我を張るところから様々な悩みが生じる。
執着を外していけば、自我から解放されると。
ぼくはまだ現世に迷い、俺がというちっぽけな自尊心を感じていたい心が残る。
ただ昔よりは、俺がの思いを緩められるようになってきた。
そうすると、他者と交わりながら新しいものが生まれる喜びを知ってきた。
ぼくの仕事は新たな関係性を生み出す仕事。自分と相手との境界線がなく、
溶けて交わり分かち合い、新たなものを創造できるのが至福と想う。
そこには執着の囚われから放たれることが必要なのだろう。
自分という枠を溶かしたときに、分かち合う悦びは生まれるのではないかな。