自分に気づくことから
「やっぱり私だめだわ」と、失敗した自分に安堵する。
そんな話を聞いて過去の自分にもあったと気付いた。
その当時の自分は、天邪鬼だし、職場の仲間を斜めの目で見ていた。他者を見る目に信頼
は入っていなかった。上司は自分を応援してくれる人ではなく分析批評する評価者。
同僚は自分たちが昇進したいからと媚びへつらう人たち、そんな風に見えていた。
その頃は、自分は評価されず不遇であり、チャレンジしてもうまくいかず失敗する、
そう思っていた。自分に自信をなくしていた、できない言い訳を「また、うまく行かない
さ」と思っていた。
友が紹介してくれた文章でうなづいた、『うまくいかなかったとき「やっぱり駄目だった
わ」と、失敗に安堵してしまうことってあるでしょう。自分はそれには値しない人間だと
外から承認してもらえたような、小さな小さな興奮が生まれる瞬間』。
また、『毎度毎度同じところに突っ込んでいって、幸せにはなれないことを他者に証明
してもらい、ボロボロになりながら「やっぱりね」と変に納得した顔で帰ってくる』。
嗚呼そうだった。
未来の自分に失望する、その結果を予見して先回りして、だめな自分を前提にしておく。
予防線を張っていた自分。「私なんかが」と自分を低く見積もって生きていると、失敗に
対する耐性は身につく。だけどそれはね、失敗する自分の身を守るために、処世術として
のマジックワードだったのだ。今になってわかる。
その呪縛とも言える「私なんかが」から解き放たれるには、何が必要なのだろうか。
それは、「囚われている自分」に気づくこと。
失敗するために自分は生まれてきたのだろうか、失敗し続けることで自分は本当に満足
なんだろうか、本当の自分の望みは何なのか。
囚われている自分に気づくには、矢印を己に向けて、問い続けていくしかない。
僕にとってそのきっかけを与えてくれたのがコーチングだった。
自分も他者にも、「人の可能性を信じること」から物語が始まることを、気づかせて
くれたのだ。