内にある言葉
読書ノート「生きる哲学」若松英輔より
出会うべき言葉は私たちの内にある。
分かると言う事は変わるということだ。
ある出来事にふれ、真にわかったとき人は、どこかで変貌しているのである。
新しく知るという事は無い、とプラトンはいう。
人間が知らなくてはならないことは全てその魂に宿っている。より正確に言えば、魂を
扉にした「真実在」界と呼ぶべき世界にすでに存在していると考える。
出会うべき言葉は誰もが、すでに自分の手に握り締めているということになる。
生きるとは、自分の中にすでにあって、見失っている言葉と出会うための道程だとも
言えるのかもしれない。だが、その言葉は、必ずしも言語の姿をしているとは限らない。
奇妙に聞こえるかもしれないが本当だ。
言語は、無尽にある言葉の一形態に過ぎない。このことは、言葉と言う表現を意味の塊と
置き換えるとよくわかる。私たちは日常生活の様々なところで意味を感じている。
朝、日が昇るのを見て美しいと思う。それにとどまらず、ある充実を感じる。
あるいは深い畏敬の念に包まれる人もいるかもしれない。雨の中にたたずむ時、静かな
大地の蠢きを感じる者もいるだろう。鳥のさえずり、川の流れ、私たちは万物の動きに
意味を感じることができる。逆の言い方をすれば、世界は人間に読み解かれるのを待って
いるようにさまざまな意味を語っている。