命を感じる
昨夜は、ひと回り下だけど同志と感じられる後輩と、愉しく呑んだ。
ひとりは100キロウォーキングも共に歩いた後輩、
もうひとりはブラジル時代を共に過ごした後輩。
「後になって振り返れば」の話で3人とも共通したのが、苦しかった辛かった時代を
共に過ごした仲間から、戦友や同志と言える間柄が生まれてくる。
また、ままならない理不尽な境遇に仲間がいるときにどうやって声をかけるか、の談義で
は、「とにかくやりきれ、やり切った先に何かが見えてくる」との声だった。
僕の声の掛け方は「のたうち回ろう。この意味は後になって解るから」。
先輩後輩関係なく、どうやって生きるかを語ることは、愉しい。
子育て、異動、転職、など人生の節目節目の中で、いろいろな悩みや葛藤もあるが、
それぞれが自分の人生を生きようとしている、自分で自分の人生を背負おうとしている、
その心を持つ者との語らいが好きだ。
後輩が言った。
「中学生の頃、親父に連れられて行った山登り、奥穂高ジャンダルムの切り立った壁で
滑落した。かろうじて指2本でぶら下がり踏みとどまった。戻って生還できた時は、
腹の底から大笑い。僕は「明日晴れれば幸せ」そう生きたい」。
死を感じたからこそ、生きてるだけで笑える、生きてるだけで儲けもの、
そんな感覚も味わえるのだろう。
僕は残念ながらそんな体験はした事はないが、とにかく生き切る、自分の器を使い倒す、
そう一日一生で歩んでいく。