いのちの場所
読書ノート
内山節「いのちの場所より」、抜粋引用
「いのち」は自然や神仏を含む他者との関係のなかに存在していた。
人間は自分の「いのち」は自分の身体の中にあると感じる。もしも命が機械的な機能に
過ぎないのなら、つまり心臓が動き、血液が流れ、といったことに過ぎないのなら、命は
自分の身体と共にある。しかし人にとって「いのち」とは生きている場の中に成立して
いるものである。命を成立させる場があって、はじめて命が存在することができる。
そしてこの場を作り出しているものが関係である。私たちは他者との関係のなかに、
自分の生きる場を、「いのち」が存在する場を成立させている。
だがそこが新太郎さんにとっては最良の場所だったのである。
最良の場所は選択するものではなく、諒解するものだからである。
とすると何が諒解をもたらしたのであろうか。その人を包み込んでいる関係が、である。
自然との関係、村の人々との関係、村の祖先との関係、村の歴史や文化との関係。
そういう関係とともに生きているうちに、それらの関係の中に自分の「いのち」が存在
していることをつかみとった。そこに自分のかけがえのない存在があった。諒解された
自分の存在があることを知ったのである。違う関係では決して成立しない自己の存在が、
そこにはあった。「いのち」の存在は諒解されていくものだったのである。