未完了な自分
人生の目的、
何のために自分は生きているのかについて、ハッキリとこたえられるだろうか。
その時々で掲げる目的、目標を見出して走っていることはあろう。
けれども、「人生の」がついたときには、そこまでのものは思いつかない。
ぼくの場合は死ぬ直前に、嗚呼このために生きてきたんだと、目的に朧げに気づきながら
死ぬくらいで良いと想う。でもその境地に至るには、自分に矢印を向け、目的を問い続け
て行動し思考し、人と交わっていくことの積み重ねが必要じゃないかな。
ぎりぎりと歯を食いしばり目的はなんだと研ぎ澄まさなくて良い、ぼんやりと問いを心の
中に抱いているだけで良い。問いを持っていればアンテナが立ち、無意識に然るべきもの
を掴み、然るべき人に出逢わせてくれるから。
目的を探していくのに「未完了」はひとつの手ががりなのかも知れない。
生まれ落ちたときに人は、人生の課題を背負っているように思う。どんな課題かを皆んな
知らないのだけど、その課題をクリアすることで自分の目的へ近づくのが、人生かな。
過去の人生における未完了、これは満たされていない成就されていない想いや願い。
感情としては、悔い、辛さ、哀しみ、怒り、絶望、孤独を伴うものだろう。
だからこそ人生をかけて埋め戻し成就したいと、心の底で願う対象なのだろう。
過去の未完了は、普段は陽の目を見ずに心の底へ沈められている。
遠くへ行きたい。そのためには自分の中心としっかり繋がった推進力が欲しい。
自分の深淵と繋がって腹の底から力を出す、そしてままならない現実世界でも自分を
直視し、前へ進もうと決められる。
それには、信頼できる、共に生きようとする仲間が必要だ。
仲間がいれば、独りでは辿りつけない遠くへ行ける。