疲労社会
昨日、仲間から面白い話を聞かせてもらった。
いまの世の中の忙しすぎる生きづらい社会、それを疲労社会と表現している。
その根っこはどこにあるのだろうか。
昔は規律社会だった、「〇〇してはならないという禁止や、〇〇すべきという強制」の
否定性で成り立つ社会。雷オヤジの俺が権力だという家庭や、校則でがんじがらめの学校
生活、それが規律社会の一端を表すだろう。
そして今は能力社会、私はできるまた自律した存在であることがもてはやされる。
「すべき」から「できる」への転換。
一見、束縛されたがんじがらめの規律社会から個人が解放され、能力次第でのし上がり
自由を得られるように感じてしまう。しかしそこにも個人が囚われてしまう罠がある。
肯定性自律性の過剰により、人は疲弊しうつ病を発症するというのだ。
『能力を高めよう→私はできる→何かを成し遂げる→特別な存在でありたい』、
能力を高めることを追求し、何か成果を出すことで特別な存在であろうと競っていく。
Doingの結果を出し続けることで、社会における自分の存在を証明しようとする。
自分にとって健康的な競争環境の中で、能力を高めていくことが人間力を成長させ、
自分を満たしていくのであれば良い。しかし能力を高めることが過剰になっていない
だろうかは問い直したほうが良い。
それは能力を高め成長し続けないと、人としての存在意義がないのだろうか?の問いだ。
能力を高めること=人としての存在意義であるならば、人はいつまでたっても能力向上の
呪縛から逃れられない。
赤ちゃんは、存在意義がないのだろうか。
生きているだけでその存在だけで、屈託ないケラケラ笑うその存在だけで意義がある。
そこには能力とは関係ないBeingの価値がある。
あなたは存在しているだけで価値がある、それも併せて認める。
そういった関係性を会社組織の中でも育んでいきたい。